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元OpenAI CTOのミラ・ムラティ氏が率いるThinking Machines Labが、同社初のAIモデル「Inkling」を公開した。Inklingは、総パラメータ数9,750億、最大100万トークンに対応するオープンウェイトのマルチモーダルモデルで将来予測の精度を測る一部のベンチマークでは、GPT-5.5やClaude Opus 4.8を上回った。
ただし、総合性能でClaudeを超えたわけではなく、Inklingの本当の特徴は、利用者が自社のデータや評価基準を使って追加学習し、独自のAIへ育てられることであり、Thinking Machines Labは、完成済みのAIを提供するのではなく、企業や開発者が自分たちの知識を組み込めるAIを最初の製品として選択した。
今回の発表とは
Thinking Machines Labは2026年7月15日、同社初のオープンウェイトモデル「Inkling」を公開しました。Thinking Machines Labは、OpenAIでCTOを務め、ChatGPTなどの開発を率いたミラ・ムラティ氏が2025年に設立したAI企業です。
Inklingのモデルウェイトは、Apache 2.0ライセンスのもと、Hugging Faceで公開されています。研究や追加学習だけでなく、条件を守れば企業が自社製品へ組み込むことも可能です。

Inklingは、総パラメータ数9,750億、実際の処理時に動くアクティブパラメータ数410億のMixture of Experts、通称MoE型モデルです。256個の専門家モデルから、入力ごとに6個を選択し、常時動作する2個の専門家と組み合わせて処理します。すべてのパラメータを毎回動かすのではなく、必要な部分だけを使うことで、巨大なモデルと計算効率を両立させています。最大100万トークンのコンテキストに対応し、テキストに加えて画像と音声を入力できます。出力はテキストです。
学習には、テキスト、画像、音声、動画を含む45兆トークンが使われました。既存モデルを基盤にした追加学習ではなく、Thinking Machines Labがゼロから事前学習したモデルです。
InklingはどのようなAIモデルなのか
Inklingは、推論、コーディング、AIエージェント、画像認識、音声理解などを幅広く扱う汎用モデルです。画像の内容を説明するだけでなく、グラフや図表を読み取り、数学的な推論を行えます。音声についても、文字起こし、音声による指示への応答、録音内容についての質疑応答、長時間の音声に対する推論に対応しています。
大きな特徴の一つが、推論時の「思考量」を調整できることです。複雑な問題では思考量を増やして精度を高め、簡単な作業では思考量を抑えて応答速度とトークン消費を減らせます。
公式評価では、コーディング能力を測るTerminal-Bench 2.1において、InklingはNemotron 3 Ultraと同程度のスコアを、約3分の1のトークン消費で達成したとされています。

利用者がすべての質問に最大限の推論を求めるとは限りません。
日常的な問い合わせには速く回答し、難しい分析や開発作業には多くの計算を使う。Inklingは、この性能、速度、コストのバランスを利用者側で調整できるように設計されています。
InklingはClaude Opus 4.8を超えたのか
Inklingの発表で注目されたのが、将来予測の精度を評価する「ForecastBench」の結果です。
検索機能を使用しない条件では、Inklingが61.1を記録しました。GPT-5.5は59.1、Claude Opus 4.8は54.6となっており、Inklingが両モデルを上回っています。
ForecastBenchでは、単に未来の出来事を当てるだけではありません。
「発生する確率は何%か」と予測させ、結果と照らし合わせて、予測の正確さと自信の持ち方を評価します。
Thinking Machines Labは、モデルが知らないことまで断定するのではなく、情報が不足している場合には適切な不確実性を示せるよう、実際に結果が判明した予測問題を使って強化学習を行ったと説明しています。

ただし、「InklingがClaudeを超えた」と一般化することはできません。
検索を使用するForecastBenchでは、Inklingが63.7、GPT-5.5が64.7となり、GPT-5.5が上回っています。
さらに、非常に難しい推論問題を集めたHumanity’s Last Examでは、Inklingのテキストのみのスコアが29.7%だったのに対し、Claude Fable 5は53.3%でした。ツールを使用する条件でも、Inklingの46.0%に対してClaude Fable 5は64.5%となっています。
ソフトウェア開発能力を測るSWE-Bench Verifiedでも、Inklingは77.6%で、上位のクローズドモデルには届いていません。
そのため、正確には次のように整理する必要があります。
Inklingは、将来予測など一部の評価でClaudeやOpenAIのモデルを上回りました。一方、総合的な推論力やソフトウェア開発能力で、最上位のクローズドモデルを超えたわけではありません。
Thinking Machines Lab自身も、特定のベンチマークだけで突出したモデルではなく、幅広い能力を持つ基盤モデルとしてInklingを位置付けています。

Inklingの本質は「最強モデル」ではない
Inklingの重要性は、ベンチマークの順位だけではありません。
Thinking Machines Labが最初のモデルとして選んだのは、ChatGPTのような完成済みのサービスではなく、利用者が自分たちの目的に合わせて追加学習できるオープンウェイトモデルでした。
一般的なクラウド型の生成AIでは、モデルの学習内容や基本的な振る舞いは、AI企業側によって決められています。
利用者は、プロンプトや外部データを使って回答を調整できますが、モデル自体の重みを変更することはできません。
一方、Inklingではモデルウェイトが公開されているため、企業や開発者が独自のデータを使い、モデル自体を追加学習できます。
Thinking Machines Labは、Inklingについて、研究、ファインチューニング、外部製品への統合を支援するためにオープンウェイトで公開したと説明しています。
単にAIに資料を検索させるだけではなく、
- 自社独自の判断基準を学習させる
- 特定業界の回答精度を高める
- 社内で望ましい文章やコードの形式を覚えさせる
- 独自の評価方法に合わせて振る舞いを変える
といった調整が可能になります。
つまりInklingは、完成済みのAIというより、自社に合わせて育てるための土台です。
“自分で育てられるAI”とは何か
企業がAIを活用する場合、一般的にはプロンプト、RAG、ファインチューニングという段階があります。
プロンプトでは、AIへの指示方法を工夫します。
RAGでは、社内文書やデータベースを検索し、関連情報を回答時に参照させます。
ファインチューニングでは、モデル自体を追加学習し、回答の傾向や判断方法を変えます。
Inklingが重視しているのは、3つ目のファインチューニングです。
Thinking Machines Labは、モデルを追加学習するための仕組みとして「Tinker」も提供しています。Inklingのモデルカードからは、Tinkerのドキュメントや追加学習用のレシピへアクセスできます。
同社が掲げる考え方は明確です。
現在のAIの多くは、少数の企業によって学習され、その後は固定された状態で提供されています。そのため、実際にAIを使う企業や個人の知識が、モデルそのものへ継続的に反映されることはほとんどありません。
Thinking Machines Labは、AIを利用者に貸し出すだけではなく、利用者が所有し、それぞれの目的に合わせて調整できることを重視しています。
企業ごとに、価値ある知識や判断基準は異なります。
同じ飲食業でも、重視する客層、店舗運営、商品開発、接客基準は異なります。同じ製造業でも、品質管理や熟練者の判断には、その企業にしかない知識があります。
汎用AIにすべての企業を合わせるのではなく、企業固有の知識にAIを合わせる。
これが、Thinking Machines Labの考える“自分で育てられるAI”です。
なぜ最初のモデルをオープンウェイトにしたのか
OpenAI、Google、Anthropicなどの主要AI企業は、最上位モデルのウェイトを公開していません。
利用者は高性能なAIをすぐに使える一方、モデルの内部を自由に調査したり、自社環境で運用したり、重みを直接追加学習したりすることはできません。
Thinking Machines Labは、これとは異なる方向を選びました。
同社は、現在のAIが少数の場所で学習され、固定された状態で提供されていることを課題として挙げています。
組織で本当に重要な知識は、文書として整理された情報だけではありません。現場で働く人が持つ暗黙知、状況に応じた判断、継続的に変化する業務上の工夫も含まれます。
Thinking Machines Labは、こうした分散した知識をAIへ反映するためには、モデルも利用者側で継続的に調整できる必要があると考えています。
そのため、同社にとってオープンウェイトは、単なる無償公開の方法ではありません。
「誰が最も賢いAIを所有するか」ではなく、「それぞれの企業や個人が、自分たちの知識と判断を反映したAIを持てるか」という思想の表れです。
オープンウェイトでも手軽に動かせるわけではない
Inklingのモデルウェイトは無償で公開されています。
しかし、「無償公開」と「無料で簡単に利用できる」は同じ意味ではありません。
通常精度のBF16版は、Hugging Face上で約1.9TBあります。NVIDIA Blackwell向けに圧縮されたNVFP4版でも、ファイル全体は約592GBです。
総パラメータ数9,750億、アクティブパラメータ数410億という規模を考えると、一般的な個人向けパソコンでの本格運用は現実的ではありません。
実際の利用では、高性能なGPUを複数搭載したサーバーや、クラウド上の推論サービスが必要になると考えられます。
Thinking Machines Labは、SGLangやvLLMなどのオープンソース環境による展開方法に加え、外部事業者を通じたAPI利用にも対応しています。
今後は、アクティブパラメータ数を120億に抑えた軽量版「Inkling-Small」の公開も予定されています。個人や比較的小規模な企業にとっては、こちらの方が現実的な選択肢になる可能性があります。
AI競争は「性能」から「育てやすさ」へ広がる
これまでの生成AI競争では、ベンチマークでどのモデルが最も高い点数を取ったかが大きく注目されてきました。
Inklingも、一部の予測ベンチマークでClaudeやOpenAIのモデルを上回りました。
しかし、Thinking Machines Labが提示しているのは、別の競争軸です。
汎用モデルとしてわずかに性能が高いことよりも、自社固有のデータや判断基準を組み込み、継続的に改善できることに価値があるという考え方です。
企業が必要としているのは、あらゆる質問に答えられる世界共通のAIだけではありません。
自社の商品を理解し、自社のルールに従い、自社の専門家が行う判断を再現できるAIも必要です。
その意味で、Inklingが目指しているのは、最初から完成された一つのAIを世界中へ配ることではありません。
共通の基盤モデルを出発点として、企業や開発者がそれぞれ異なるAIを育てる環境を作ることです。
AIモデルの競争は、「どのモデルが最も賢いか」だけではなく、「どのモデルを自分たちのために育てやすいか」へ広がり始めています。
まとめ
Thinking Machines Labが公開したInklingは、総パラメータ数9,750億、最大100万トークンに対応するオープンウェイトのマルチモーダルモデルです。
テキスト、画像、音声を扱い、推論、コーディング、AIエージェントなどの幅広い用途を想定しています。
検索を使わないForecastBenchでは、GPT-5.5やClaude Opus 4.8を上回りました。
一方、Humanity’s Last ExamやSWE-Bench Verifiedでは最上位のクローズドモデルに及ばず、総合性能でClaudeを超えたモデルと評価することはできません。
それでも、Inklingは重要なモデルです。
元OpenAI CTOが設立した新会社は、最初の製品として、利用者が完成品を借りるだけのAIではなく、モデルウェイトを取得し、独自のデータで追加学習できるAIを選びました。
企業ごとに異なる知識や判断基準をAIへ反映し、使いながら継続的に育てていく。
Inklingの登場は、生成AI競争の評価軸が、汎用的な性能の高さから、所有可能性やカスタマイズ性へ広がっていることを示しています。
Claudeを一部のベンチマークで上回ったこと以上に注目すべきなのは、Thinking Machines Labが「AIは誰かが作った完成品を借りるものではなく、自分たちの知識を使って育てるものだ」という方向を示したことではないでしょうか。
writer:佐伯 美月

